閉店後の小料理屋「かぐら」。カウンターに並ぶのは、レモン、ライム、梅干し、バルサミコ――料理人・涼介が、味覚を失った元料理人・柊一のためだけに用意した酸味のグラデーション。
二年前、先輩料理人・鷲尾の暴力で味覚と尊厳を奪われた柊一。閉ざした舌と心を抱えたまま「かぐら」に辿り着き、涼介の料理に触れるうちに、死んでいた味蕾がかすかに疼き始める。
「次の味見、もっと近くでやる」
涼介のリハビリは、スプーンから指へ、指から唇へと距離を詰めていく。口移しで届けられる梅干しの酸味と塩味。途中から梅の味なんかしていない――舌が捉えているのは涼介自身の味だけだ。味覚の回復と恋の自覚が、同じ舌の上で同時に始まっていく。
百八十二センチの頑丈な身体に火傷の痕が散る涼介は、包丁を握り続けた荒い指で柊一の涙を拭い、ボタン一つ外すたびに「続けていいか」と聞く男。壊された場所を別の温度で塗り替えていく、不器用で切実な優しさが胸を抉る。
一方の柊一は、男でありながら女性器を持つカントボーイ。誰にも明かせなかった身体の秘密が、涼介の前で裸にされようとしている。「見たら軽蔑しませんか」――その問いに涼介が返す言葉が、この物語の核心だ。
五感のすべてを使って壊れた心と身体を取り戻していく、閉店後の厨房から始まる濃密な再生の物語。味覚・嗅覚・触覚が官能と溶け合い、一口ごとに距離が縮まる二人の熱を、どうか最後まで味わってほしい。
文字数はハート、濁点など込みで約20349字ほど。
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